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法事

午前10時から春江町内で中田甚太郎伯父の一周忌法要。自分の中ではついこの前に亡くなったという感じなのだが、月日の経つのは本当に早いものだ。

author:辻ひとし, category:回想, 18:23
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台風上陸

久しぶりの台風上陸で朝から激しい雨に加えて強い風が吹いていた。強風の台風と言うと
平成3年(1991年)9月に日本を直撃した台風19号、いわゆるリンゴ台風を思い出す。

9月27日夜に三国沖を通過した際の最大瞬間風速は50m/sを超えていたと言われている。当時鉄筋コンクリートの団地に住んでいた私は、建物が倒壊する恐怖はなかったものの、強風にあおられ舞い上がった砂利が団地内の駐車場に停めてあった家内の車を直撃し、ボンネットや屋根が損傷した。
どういうわけか私は落ち着いていて、追い風50mの中で100mのタイムを計ったら9秒台が出せるのではないか、などと考えていた。

ちなみにその年の春に私たちは結婚していた。あれから18年。月日の経つのは本当に早いものだなあ、と激しく揺れる木々を見ていて感じた。

author:辻ひとし, category:回想, 23:33
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川越市−わが青春の舞台

自分が住んでいる町あるいは住んでいた町が映画やドラマの舞台になるというのは嬉しいものだ。現在放映中のNHKの連続テレビ小説つばさの舞台になっている川越市は、私が大学の4年間を過ごした思い出の地である。

川越は小江戸と呼ばれる風情のある街並みが残る。蔵造りの美しい通りは、テレビを見る限り私が住んでいたころと変わっていないようだ。ただ市の周辺部は開発が進んで、当時の面影はないだろうということは容易に想像がつく。

ドラマの中に出てくる川越の町並みを見ていたら、学生時代の頃が急に懐かしくなった。そう言えば、もう20年以上も川越に行っていないが、買い出しをしたスーパーはまだやっているのだろうか、行きつけの食堂のご主人は元気でやっているのだろうか。

私が初めてマクドナルドやロッテリアに入ったのも川越に住んでいた時だ。初めて選挙に行ったのも川越だったし、初めての一人暮らしも川越だった。情緒のある川越の街並みがいつまでも変わらぬことを願っている。

author:辻ひとし, category:回想, 21:33
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大阪のうた
NHK大阪放送局が「心に残る大阪のうた」を思い出やエピソードとともに募集している。採用分は、11月3日にNHK大阪ホールから生放送される第8回「わが心の大阪メロディー」の番組の中で紹介されるとのことだ。

心に残る大阪の歌と言えば、私の場合、「ふたりの大阪」という歌がある。
読売旅行という会社でバス旅行の添乗員をやっていた時、20歳代半ばで紅顔の美少年だった私が、毎回バスの中でお客さん(特に年配の女性の方)から「添乗員さ〜ん、一緒に歌ってよぉ〜」とせがまれたのが「ふたりの大阪」だった。

ご存知都はるみと宮崎雅のデュエット曲だが、演歌にまったく興味のなかった当時の私がその歌詞を知るはずもなかった。
添乗員にとってもお客様は神様、これも営業の一環だと思った純真無垢な(その頃の)私は必死になって歌詞とメロディーを覚えたのであった。

その甲斐あって(何の自慢にもなりませんが)今でも3番まで歌詞カードなしで歌うことができます。機会がありましたらカラオケでご一緒しましょう。
author:辻ひとし, category:回想, 22:03
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新入社員のころ
昭和60年4月、三菱系の会社に就職した。私が配属されたのは経理部。高校・大学を通じて簿記を学んだ経験のない私にとって、新入社員一年目は緊張と疲労の日々だった。
借方貸方という用語の意味が分からない、見よう見まねで書くしかない振替伝票、理解して伝票を書くことができるようになるまで半年の時間を要した。

一人暮らしだったためアパートの部屋に戻っても誰もいない。そのため会社からまっすぐにアパートに帰ったことがなかった。
当時住んでいたのは、東京駅からJR中央線快速で20分の中野駅で下車して徒歩12分という中野区沼袋である。閑静な住宅街だったが、行きつけの中華料理店(杏華園)があった。
夕食はほとんどこの中華料理店で食べていた。明るい性格のマスターと喋っていると会社であった辛い事もいつしか忘れて癒された気分でアパートに帰ることができた。

今日は4月1日。新入社員諸君!死に物狂いで働くことはない。最初から飛ばしていたら後が持たない。それぞれのペースでスタートしよう。
ただ、初めから上司に逆らってはいけない。君たちは経験とか実績がないのだから、とにかく当分の間(せめて1年くらいは)上司の言う事は素直に聞いて黙って働いた方がいいと思う。
でも卑屈になる事はない。堂々と行こう!何と言っても納税者の一員になったのだから。

ところで、嬉しいことに私が新入社員時代に通った杏華園は、30年近く経った今日も中野区沼袋で当時のまま店を営んでいる。マスターの小林さんも意気軒昂だ。

杏華園のタンメンは絶品です。東京にお出かけの際は一度足を運んでみてください。
author:辻ひとし, category:回想, 23:01
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名もなき町の「まちおこし」
冬のソナタ「ロケ地」の南怡(ナムイ)島

ここのところテレビやインターネットの動画配信で「冬ソナ」が復活している。その時間帯に家にいるとついつい見てしまうのだが、たまには純愛ドラマもいい。

もう20年も前のことだが、冬ソナの舞台になった韓国の春川(チュンチョン)を訪れたことがある。ドラマの中で、大晦日にユジンとチュンサンが待ち合わせした“春川明洞通り”にも行ったが、当時はあんなきらびやかな繁華街ではなかった。
春川は「湖のまち」という名にふさわしい美しいところだ。春川駅の真正面にある米軍基地には興ざめしたが、町の中はとても賑やかで湖や島、滝、古いお寺など景勝地も多いところだ。ソウルからは特急列車で約2時間くらいだったと思う。

当時、春川を訪れた日本人観光客は数えるほどしかいなかったと思う(私も春川を旅行中に日本人に会うことは一度もなかった)が、2004年には37万人もの外国人観光客(ほとんどが日本人)が訪れたというのだからドラマがもたらした経済効果は相当なものなのだろう。日本でNHK大河ドラマのロケ地になった所に観光客が増えるのと同じだ。

そう考えてみると、コマーシャルやイベントを続けて行うよりも、人気のある俳優がラブシーンをやってくれるだけで、わんさかと観光客が訪れるわけで、そのほうが安上がりということになる。
要は「話題づくり」を上手にやれば、あとは口コミでお客さんが来るということである。ただし、口で言うほど簡単なことではなく、携わる人の努力と理解が必要不可欠であることは言うまでもない。
author:辻ひとし, category:回想, 23:56
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12月8日
12月8日と言えば日米開戦(真珠湾攻撃)の日として知られているが、私は12月8日は1980年にジョン・レノンが暗殺された日として記憶に残っている。
当時、東京都中央区にある会社に勤務していた私は、いわゆる「ビートルズ世代」である上司らが深刻な顔をしてジョン・レノン暗殺のニュースに聞き入っていたのを憶えている。私もジョン・レノンの歌は三度の飯より好きだった。

その頃アルバイトをしていた学習塾の教え子の一人が、学校の昼休みにロックを放送すると、教師が放送室に怒鳴り込んできてロックを流すのを中止させられると言っていた。中学生の教育に悪影響を及ぼすというのが理由らしい。とても悲しい気持ちになった。

「君、その先生に言ってやれ!なぜロックがいけないんだ。ロカビリーやブルースならいいのかね?そもそもロックが悪いと言うからには、ロックはいろいろと聞いたんだろうな。じゃあアンタに聞くが、ロックと言えば代表選手はビートルズだ。ビートルズのどの歌のどの部分がどのように僕たちの教育に悪いのですか?ってね」

ジョン・レノンが非業の死を遂げたとき、皮肉にも街にはクリスマス・イルミネーションが眩しく飾られ、オノ・ヨーコとの楽曲である「ハッピー・クリスマス」が似合う季節になっていた。「ハッピー・クリスマス」はクリスマスソングの定番として、今日に至るも高い人気を誇り頻繁に流されている。
author:辻ひとし, category:回想, 23:36
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プレミアム10「わが愛(いと)しのキャンディーズ」
NHKの特集番組「プレミアム10」を見る。今日のテーマは伝説のアイドルグループ「キャンディーズ」である。
キャンディーズのあとに引退した山口百恵にしても、今年現役を退いた日ハムの新庄剛志にしても、絶頂期に舞台を降りるというのは、ある意味勇気がいるというか、周囲が懐深いというべきか、とにかく人気が凋落してから引退するよりも難しいことだと思う。

いずれにしても当時ミーハーの大学生だった私は、パチンコで勝利した出玉で「微笑み返し」のレコードを手に入れ、クリープを入れたコーヒーを飲みながらディスカウントショップで買ったステレオで彼女たちの歌声を聴いていた。
キャンディーズが引退した1978年は、「UFO」だの「サウスポー」だの「モンスター」だのという訳の分からない曲を次々にヒットさせたピンクレディーがレコード大賞までゲットしていた。
ちなみにサザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」を引っさげて芸能界に登場したのもこの年である。当時友人たちと「こいつらこの一曲だけでおしまいだろう」と話していたのを憶えている。
私の「先を見る目のなさ」は今に始まったわけではないのであった。

埼玉の片田舎で学生生活を過ごしていた私だったが、1978年でもっとも印象に残っているのがプロ野球日本シリーズでヤクルトの大杉勝男選手(故人)が阪急の足立光宏投手から打った「疑惑のホームラン」である。その時後楽園球場のレフトポールの真下にいた私は、目の前に飛んできた大杉の打球がファールであることをはっきりと見た。
なのに判定はホームラン。我々以上に「そんなバカな」と思ったのは阪急の上田利治監督だった。俗にいう「上田監督の1時間19分の抗議」というヤツである。上田監督はシリーズ終了後に混乱の責任を取って辞任した。
江川卓の「空白の一日」なんていうのもこの年の出来事だ。社会では他にもいろんなことがあったが、なぜか自分の身の回りのことはよく憶えていない。
author:辻ひとし, category:回想, 23:52
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