- 渡哲也さん
- 彼方へ
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2019.07.16 Tuesday
日中の訪問先で思いがけず知人の訃報を耳にした。いわゆる家族葬で、新聞の「お悔み欄」にも掲載されなかったため今日までご逝去されていたことをを知らなかった。
サラリーマン時代に机を並べていた方で、歳は同じだが中途採用の私にとっては良き先輩で、まったくゼロからのスタートだった私を「自分も最初はそうでしたから」と励ましてくれた。スポーツカーを乗りこなし、趣味のテニスやスキーの腕前はA級だった。最後にお会いしたのはいつだったか、その時にどんな会話を交わしたのかは覚えていないが、私がその会社を辞めて選挙に出馬する際にはエールを贈ってくださった。
Hさん、本当にお世話になりました。サラリーマン時代、あなたの真剣に仕事に取り組まれる姿勢に励まされました。厚く御礼をを申し上げます。謹んで哀悼の意を捧げ、あわせてご生前の業績に心より敬意を表します。
- ナッチャコパック
- 横綱輪島
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2018.10.15 Monday
元横綱輪島の輪島大士さんの葬儀・告別式が東京・港区の青山葬儀所で営まれた。日本相撲協会の八角理事長や大相撲解説者で元横綱の北の富士勝昭氏、プロ野球巨人の原辰徳前監督、アーティストのデーモン閣下、元ボクシング世界王者具志堅用高氏ら約300人が参列したとのこと。
とにかく異端児だった。学生相撲から角界に入り、長くなってきた髪にパーマをかけたのが印象的だった。どちらかと言えば古い習慣の残る相撲の世界で、当時としてはあり得ないことだったと思う。恐らく今もそんな力士はいないのではないだろうか。
また輪島と言えば「黄金の左」と呼ばれた強烈な左下手投げというイメージが先行するが、「憎らしいほど強い」と言われた北の湖を苦しめたのは「いぶし銀の右」と呼ばれた右からの絞りだった。今の若い記者さんはそれを知らないのだろうか、どのメディアも「黄金の左」ばかりを取り上げていた。当時の蔵前国技館で両者の対戦を実際に見たオールドファンとしては寂しい限りだ。
輪島と北の湖の対戦において立ち合いでの待ったを見たことがない。いつも輪島が左下手を取り北の湖が右上手を取りに行くという毎回絵に描いたように同じ立ち合いだった。お互い自分も十分だが「相手も十分な態勢」で相撲を取った。勝負に勝つためには「自分十分・相手不十分」という態勢が当たり前の土俵にあって、あの二人の相撲は違っていた。本当に見ごたえがあった。私が相撲ファンになったのも輪島と北の湖の存在があったからだ。
今の現役力士に望むことは、ライバル同士が最後まで白熱した優勝争いを展開し、千秋楽結びの一番で両雄が対決するようなスリリングな相撲を見せてほしいということに尽きる。もちろん、自分十分・相手不十分という相撲ではなく、輪島と北の湖のような両者十分の態勢での勝負であってほしい。
- 歌丸さんを悼む
- 西城秀樹さん
- 名将!上田利治監督
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2017.07.04 Tuesday
プロ野球パリーグの阪急(現在のオリックス)の指揮を執り、1975年から日本シリーズ3連覇を果たした上田利治(うえだ・としはる)さんの訃報は私にとって非常に残念なニュースだった。
現役時代のことは全く知らないが、1974年に阪急の監督に就任して黄金時代を築いた。1995年から5年間、日本ハムの監督を務め、監督通算20年で1322勝は通算勝利数歴代7位であり、2003年には野球殿堂入りしている。
上田監督と言えばやはり1978年日本シリーズでの1時間19分にわたる猛抗議だと思う。ヤクルトを相手にした日本シリーズは3勝3敗で最終の第7戦を迎えた。この試合でヤクルトの大杉勝男選手が左翼ポール際に放った打球がホームランと判定され、上田監督は1時間19分にわたる猛抗議を行った。しかし判定は覆らず、4連覇を逃した責任を取ってシリーズ終了後に監督を辞任した。それから30年以上も「あれは絶対にファウル。それが認められるまでは死ねない」が口癖だったという。
以前にも本ブログで書いたが、あの日あの時、まさに後楽園球場のレフトポールの真下にいた私は、目の前に飛んできた大杉選手の打球がファールであることをはっきりと見た。周囲に陣取っていた阪急ファンが一斉に安堵の吐息をもらしたのを今でも鮮明に覚えている。そう、上田監督の抗議は正しかった。あの打球はファールだったのである。
たかが野球の判定であり、しかももう昔のことでどうでもいいことなのだろうが、あの時の上田監督の姿は「熱血の闘将」だった。謹んでご冥福をお祈りいたします。
- 義母の訃報